ダウガフピルスの戦いで戦死した兵士の記念碑とラトビア独立戦争について Monument of the Battle of Daugavpils and Latvian War of Independence
2022-07-08
反対側には、兄弟墓地(Brāļu kapi)がある。
場所:ダウガフピルス(Daugavpils, Latvia)の近く
碑文:
KAUJĀS PAR DAUGAVPILI GĀJA BOJĀ 2536 KARAVĪRI.
MŪŽĪGĀ PIEMINA KRITUŠAJIEM VARONIEM ATBRĪVOTĀJIEM.
ダウガフピルスの戦いで2536人の兵士が戦死した。
祖国を解放した英雄たちを永遠に忘れない。
(↑たぶんこんな感じのことが書かれている)
*ちゃんと文字も正確に再現されているETS2の凄さよ。
ダウガフピルスの戦い(1920年1月3〜5日)
第一次世界大戦後のラトビア独立戦争における最後の戦争のこと。
情報元:https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Daugavpils
実際の場所:Parks
*以下は自分なりに調べて、なるべく簡潔にまとめてみた。
『ラトビア独立戦争』とは
ラトビアは13世紀初期よりドイツ騎士団の支配下にあった。
1721年の大北方戦争後にロシア領になった。その後、ロシア国家のもとドイツ系貴族の支配が続く。
1881年よりロシア化政策が強化されるとともに、民族覚醒がおきる。
ラトビア人が「ラトビア人」として自認し始め、ラトビア文化が開花、独立心を高めていく。
1917年ロシア革命が起こりロシア帝国が崩壊。ソビエト政権が成立。
1918年11月11日、第一次世界大戦が終了しドイツ帝国が崩壊。
第一次世界大戦後の混乱の中、1918年11月18日、ラトビア民主共和国の独立を宣言する。
その直後に赤軍(ソビエト軍)がラトビアの領土に侵入し、戦争開始。
これは独立した民主共和国ラトビアのための戦いとなり、これを『ラトビア独立戦争』という。
1月から5月まで、わずか数ヶ月で5000人ものラトビア人を殺戮し、「赤色テロ」と呼ばれている。
ラトビアの大部分をソビエト軍が征服。一部をドイツ軍が支配。
1919年6月、ラトビア軍は、エストニア軍と共にドイツ軍を打ち負かす。(ウェンデンの戦い)
1920年のはじめ、ラトビアとポーランドの合同部隊が赤軍を攻撃し、赤軍から解放される。
1920年8月、ラトビア・ソビエト・リガ平和条約を締結した。
その第2条は、「ロシアはラトビア国家の独立、主権および主権を無条件に認め、ラトビアおよび土地の人々に対するロシアのすべての主権を永久に放棄する」と述べている。
ラトビア独立戦争は、共産主義のロシア帝国とドイツ帝国の両方に勝利。
ラトビアという小さな国が、強国相手に自由を勝ち取った戦争である。
ラトビアのライフル隊は、『ザ・ライフルマン 地獄の最前線』という映画にもなっている。
ただし、国土の大半が戦場となったラトビアは、1914年に250万人だった人口が1925年には180万人となり、35%も減少した。戦時とはいえ、これほどの人口減少は他の欧州諸国でも見られなかった、とのこと。